「あの大空を 翼を広げ」
西野績葉


登場人物
 岩崎光男(いわさきみつお)(21)
 翼を持った青年
 相原サオリ(17)
 ストーカー
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■Another.■
 神は彼女にゆうなという名前をあたえました。
 それは嘘で、本当は彼女の父親が、テレビを見ながら彼女の名前を適当におもいつきました。
 父親はゆうなちゃんを犯しましたが、その現場を俺が発見して、通報しました。
 通報したあと俺はゆうなちゃんの父親を殺しました。
 正当防衛です。通報した僕に襲い掛かってきたから殺した……という事になっています。
 それからゆうなちゃんは僕の事をお兄ちゃんと呼んで慕ってくるようになりました。
 彼女には、まいなという妹がいました。
 居たのかもしれないし居なかったかもしれないですが、とにかく彼女らはこの世界に存在しました。

 昔々、ゆうなちゃんとまいなちゃんが居ました。
 でも僕が殺しました。

 頭の中に居た彼女らは、従順でした。
 だけど、あるとき気がついてしまいました。
 彼女らは、僕の知っている事しか知らないんだって。
 僕……俺……どっちでもいいけど、とにかく自分の知らない事は知らない絶対安心な存在でした。でも彼女らは結局の所、最後まで俺の夢の中でしか触る事はできなかったのです。それに彼女らはとてもとても薄っぺらい存在だったのです。僕には何も新しい世界を教えてはくれません。
 第一、今は俺にはリアルな彼女がいるのです。大してかわいくないですが、一緒に居て安心できる彼女です。自分の身の程を知っているので、俺の事を好きだと言ったりヤったりしてくれる彼女のほうが大事です。
 だから、僕は彼女たちを殺しました。
 でも血は流れなかったし叫び声も聞こえませんでした。
 ただ、
「さよなら」
 という声だけが最後に聞こえた気がした。いや、聞こえたんだ。
 そして消えてしまった。 
 僕は/俺は………………………
 ………………………………
 ……………………
 …………
 ……
         ○
■True 一■
 俺は自分の初めての記憶をよく覚えている。
 俺は病院に居る。母親に手を引かれて歩いている自分が居る。
 黄ばんだ白い壁。
 茶色い合成樹皮の長椅子。
 永遠にも長く思える受付。
 全ての物がビルのように高く感じられる。巨人の世界だった。
 その頃の俺は、何もかもを見上げながら生きていた。

 子供の頃、食卓に出てきたものと同じ形をしたものをスーパーで見かけた。それは鮭の切り身だったのだ。母がこの魚が鮭なんだよ、と教えてくれた。俺は切り身が海を泳いでいると真剣に信じていた。
「光男、これが海を泳いでいるわけじゃないんだよ」と母が言った。
「じゃあ何が海の中をおよいでんの」と俺は聞いた。
「そりゃ切る前の魚が泳いでるにきまってんじゃないのさ」さも当然のごとく母はそう答えた。「ふうん」俺はとりあえず納得した。大人が言っていることは正しいんだと信じて疑わなかった。
 そしてやがて俺は成長して、鮭の切り身は鮭ではないことを知ることになった。それは切り身からは創造できないほど大きな魚だということがわかった。だけど今になって思う。俺にとっては鮭の切り身=鮭という図式は、心の奥ではずっと変わっていなかったし、今も変わっていないのではないか。それが俺の実感なのではないか。物心がついたときから、既に調理されたものが食卓の上に上がっていて、それを何の疑問も無く口にしていたら、それが元はどんなものだったか、生臭い匂い、潮の香り、生き生きと動く姿や捕食の様子、生態系においての位置など、考える必要がないことではないか、いやそもそもそれがそういうものだと知らないんだ。生まれたときからずうっと、空の色を知らない人のように。
         ○
■二■
 もし/私の/願いごとが/叶うならば/翼がほしい
 この/世界を/鳥のように/自由に舞う/翼がほしい
 この大空を/翼を広げ/飛んでゆきたいよ
 悲しみのない/自由の空を/翼はためかせ/ゆきたい


 埼京線沿線にある高層マンションの屋上は、風が強く、遠くはどこまでも見渡せた。
 心さえ切り裂くような風が吹く。周りには何も大きな建物は見えない。
 太陽は既にだいぶ傾いていて、遠くに……カラスかな。鳥が群れを成して飛んでいるのが見える。まだ空は青かったが、もう月が出ている。
 遠く、山が連なっているけれど、霞んでいてよく見えなかった。
 大きな入道雲。街をいくつか越えたところにある、工場の煙や、小さな電波塔の影。
 ここに入るのには苦労した。鍵をこじ開け、フェンスを破り、この場所にやっと入れたのが二日前。昨日も下見のため、ここを訪れた。すると思いがけず夜景が見えたんだ。いい眺めだった。
 俺はゆっくりと立ち上がる。そろそろ、もう、いいや。カラになったチューハイの缶を蹴っ飛ばし、タバコを携帯灰皿で押しつぶし、携帯灰皿ごと遠くへ投げ飛ばした。
 寂しくなんか無いけど、公園で近所のおばさんが餌をやっていた猫の事とかが思い出されるけど、もういいんだ。
 さあ、飛び立とう。
 俺は、はしごを上り、給水塔のてっぺんから、ゆっくりと、ゆっくりと、足を踏み出した。

         ○


■三■
 ある日、肩甲骨の辺りに違和感を感じて目が覚めた。
 何かが変だと思いながらいつものように洗面所に行く。さてヒゲでも剃ろうかな、と鏡を見ると、パジャマが妙な形をしていた。よく見ると妙な形をしていたのはパジャマではなく自分の背中で、そしてしばらく目を擦ってボーっとして鏡を見ていたが、とりあえず着替えようと思ってパジャマを脱ぐと、
 翼が生えていた。
 誰だったか。翼がほしい、大空を飛びたいと、そう言った奴が居た。しかしどうだ。翼が生えたからって飛べるとは限らないじゃないか。そんな意味不明な事を寝ぼけた頭が考えていた。
 それからさらに数日、インターネットをやりながら部屋にとじこもっていたら、羽は見る見るうちに成長。漫画とかでよく見る天使の翼、そんな感じだったが、羽の色は青だった。幸せの青い羽? それを言うなら青い鳥だと思う。
 まるで俺の心を象徴するかのようにブルーな羽。爽やかな青とか空色からは程遠く、濁った様な青だ。
 ためしにネットで有名なあの掲示板に『翼が生えました』というスレッドを立てたら、ネタスレ扱いされ、レス番号四七は『僕の猫にも羽が生えました』という発言から絵師が羽のはえた猫の絵を描いて公開し、スレッドキャラクターに誰かが勝手に認定してなぜか大人気になってそのスレッドはいまPart8まで続いてる良スレになってしまった。
 こんなはずじゃなかった……。
 どうしよう、病院行こうかなあ、でも保険料払ってないし…。大体保険が効いても金が無いし。とかずれた事を考えていた。
 それに外に出るのはなるべく避けたい。注目されたくない。他人の視線が怖い。ニコニコ笑ってるお巡りさんは、近隣住民と仲良くしたいだけなのだろう、なのだろうけれど何か悪いをたくらんでいるように見えてしまう。

 俺はいわゆる引きこもりという状態なのだろうが、だけど自分のことを引きこもりというのには抵抗がある。最低限食い物は(まとめ買いするけど)外に買い物に行くし、確かに生活は不規則で、毎日エロゲーばっかりやってて、親戚の仕送りで生活していて、大学は中退して、アルバイトの面接をしたけど17社落とされてやる気がなくなってきた今日この頃で、ダメ人間というか、もう手遅れなんじゃないかとか俺は思うけれども。
 でもとりあえずネットは面白いし、どこからか入手したエロゲーは素敵だし、この前も感動して泣いちゃったし、まだ生きているのも悪くないかとかまあ適当に普段は考えているのだが、それでも突然いきなり自殺衝動がやってきて、自分は世界の誰にも必要とはされてなくて、それどころか害にしかなって無くて、社会の税金で助けてもらってて、生活保護もらえたらいいなと思ってて、まだ童貞で、夢精するのがとてつもなく気持ちよくて、オナニーをわざと我慢してて、かとおもうと時々狂ったようにオナニーをして、そしてとにかく死にたくなって死にたくなって足摺岬とかに出かけて警官に保護されて親にはるばる中国地方まで引き取りに来てもらったり……
 そういう状態ではあるのだが、断じて引きこもりではない。引きこもりという言葉で分類してしまったら、その言葉に逃げ込んでしまうのが恐ろしい。「私引きこもりなんですよ」なんて言って、にへらにへら笑いやがって。何がそんなに嬉しいんだ。ファッションじゃねえよ、切実に悩んでるんだよ! どいつもこいつもリストカットとか自殺未遂とかしやがって。俺はクラスの中で一番背が高いからいつも体育の時は一番後ろで、でもそれだけで、すべてがダメだったしいじめられてたけど、お前らとは違うんだと思ったから生きてこれたのに、くそったれこのウンコ!
 っていうか考えてるからいけないんだ。考えるのはやめよう。今すぐやめよう。少なくとも精神的には危ない状態にあるかもしんない。でも俺はまだひきこもりではないはずだ。
 精神保健なんたら法だかの三十二条(医療費助成)の適応受けて、心療内科・精神科に行くのにだけはお金がかかってないから、だからいろいろと薬を貰って飲んでいるが、実に薬の効果は侮れない。その所為もあってある程度考えないで適度に生きていくこともできるのだろう。
 そういった訳で百円ショップで売ってたピルケースに入れてある抗不安薬とリスパダールという薬を飲むと落ち着かなかった気持ちがスゥと晴れていった。
 現実を生きていくには折り合いも必要なんじゃないか。まあそんな風に思ったりもする。

 さらに数日が経った。
 羽はもう立派に成長していた。もしや幻覚なのではないか? と思い触ってみると、何の感覚も無かったが、ぴくん、と動いた。
 まだ神経がつながっていないのか、感覚はまったく無い。
 冷蔵庫が空で、カップラーメンも袋ラーメンも切れたのでそろそろ食料を調達しなければならなかった。一日二食はカップラーメンか袋ラーメンなのだ。よく下痢をする。
 とにかくこの羽は、他人には見せられない、というか見てもなんだろうと思うだけだろうけれど。
 どうしよう、次病院にいく日が近い。精神科の先生にこの羽をどう言い訳すれば?
 とにかくこれは飾りなんですとかなんとか言っておけばいいだろう。ファッションです、といえばもしかしたら納得してくれるかもしれない。意外と。
 それに肩の辺りは変だが、厚着をすれば別にどうということもないし、ちょっと見た感じは、仮装なのだとかいろいろと言い訳はできる。
 そんな風に楽観的に考えて思い切って外に出てみると、実際やっぱり誰も気にしたりはしなかった。時々こっちをチラチラと見ていく人がいるのだが、それは自意識過剰なだけかもしれないし。
 今までどおりにコンビニに買い物に行っても、なんの支障も無いことがわかった。

 さらに一週間ほどたつと、自分の意思で羽が動くようになった。
 精神科の先生は薬を増やしてくれたが、飲むとまったく動けなくなるので今までどおりの量しか飲んでいなかった。
 腕を同じだけ動かせばめちゃめちゃ疲れるのに、この羽はぜんぜん疲れない。
 飛びたいな、と思うだけで翼が反応するのだ。
 そろそろ何となく飛べるような気がしていた。
 それで四畳半一間を抜け出して、近所の公園に行った。
 春もそろそろ終わりだけれどまだ夜は少し肌寒い感じがする。
 周りに人が居ないのを確認してから夜の公園で羽を広げてみた。
 俺の背中にくっついた羽だか翼だかは、
「飛びたい」
 と念じるとまるで業務用送風機のような勢いで風を起し、そしてふわりと体が浮いた。
 おおっ、スゲー浮いてる。
 ばっさばっさと派手に音を立てて、体が浮いていた。
「俺は手に入れた。翼を手に入れたぞ!!」
 叫んでやった。胸がスッとしていくのがわかった。
 しかしこれ以上舞い上がると、飛んでいるけど落ちそうな気がして怖かったので、今日のところはこれくらいにして家に帰って月姫をプレイしよう。そのあと妹汁をやって妹を攻略しよう。そうだそれがいい。それに飽きたら飽きるほど寝よう。就職活動は今度にしよう。


■四■
 ぴーんぽーんぱーんぽーん。
 土曜日の授業が終わった。
 どこにいっても同じような風景の個性の無い白い教室、劣化した掲示板。柱には小さな殴り書きの落書き。いわくSEX=B
「サオリー。カラオケいかねー〜?」
 同級生のミカがあたしを誘ってくる。
「あーごめん、あたしちょっと用事あるから〜」
 もちろんあたしは即効で断るのです。
「あんた最近付き合い悪いよ?」「彼氏ができたんでしょ多分」「男かぁー〜、どーりで」
 周りに集まってきたクラスメートがそれぞれに口を挟んだ。男には違いない。今回は。
「どこのどいつよ、この子を調教してんのは。サオリを調教すんのはあたしだけで十ぶ」
「いつこのあたしがあんたに調教されたっ!!」
「サオリったらあの夜の事を忘れたって言うの、あたしたちの愛は永遠だとかゆってたくせに」
 ほざいてる同級生を無視してあたしは急ぐ事にした。
「まあなんとでも言いなよ。あたしは楽しい毎日を送っております。カラオケ、夜ならいけるからケータイにメールしてよ。それじゃ」
 誰かがガラガラと音を立てて扉を開けて、教室を出て行った。あたしはその音を合図に席を立つ。あたしの趣味は誰にも気がつかれてはならない。だから何でもいい。
 恋愛とかには興味が無い。あたしは腐ったミカンだ。だから取り除かれないようにダンボールの奥底に眠り、そして周りを気がつかないうちに腐敗させるのだ。
 学校から帰り、目立たない服装へ着替える。そしてライフワークをはじめる。その場所は家から歩いて二十分ほどのところにある。
 あたしの趣味は、ストーキング。散歩だ。それはウォーキングだ。そうでなくて尾行の事である。
 途中でコンビニに寄って弁当を買ってきた。公園には何事も無く到着した。あたしは公園のベンチに座る。そして遅めの昼食としてコンビニの弁当を口いっぱいに頬張る。いわく爆弾唐揚げ弁当≠サして先ほどからペットボトルのお茶で米粒をのどの奥へと流し込みつづけている。ああいい天気だなあ、糞暑いなぁ、と思いながらも必死に米粒をのどの奥に流し込んでいると、ふと蝉の声が耳障りに聞こえたりもして、あああいつ等(蝉)も一生懸命生きてるんだよなあ、とか変に感慨深くなったりもしつつ、そろそろいつものように彼が来る時間になった。
 彼はやっぱりやってきた。そこには彼――若い男、といってもあたしよりは年上だ――が一人居るのだが、彼はいつも誰かと喋っている。それもさもうれしそうに。携帯を使っているという風でもないし、いったい何ゆえ? 疑問は降って沸いてそしていつの間にやら消えているのだが、この似非ストーカー愛原サオリさんにかかればいつかはそんな疑問も浮かんでこないようになるようなならないような。イヤそもそも疑問ですらなく、ただただ致命的にどうしようもなく救いようもなくあの男が頭が狂っているだけなのかもしれない、まあそれはそれ。狂っている人を7メートル手前から観察するのもなかなか楽しいのですううお茶がもうないぞおにぎりがのどにつっかえましたしばらくおまちください……くっ。はあはあと、まあそんなわけで。
 ともかくあたしがこの男をストーキングするようになってからずいぶんとたったのだが、彼はかなり変わった人だ。とてつもなく変わっている。それはあたしのクラスメイトで、コストパフォーマンス重視だからといって介護用のオムツを生理の度に着用する順子ちゃんとか、子供の癖に哲学にはまってしまったらしく黄色い救急車で運ばれる処遇を受けた、いとこの偉人君とか、そういう変わった人々は何故か枚挙にいとまがないくらいに周囲にたくさんいるんだけど、もうそんなかでも彼は最強に強まった変人ぶりだ。
 このあたしも、似非ストーカーという、休日などに人の後をつけていき、その人が見せる『仮面を被ってない状態』を見て、にまにまと思い出し笑いをする、というような、あまり他人には公にいえない趣味を持っているワケですが……。
 普通ストーカーという場合に相手に干渉するのが普通なんだけど、あたしの場合は干渉はしない。とにかく人のあとをついていき、その人の住んでいるところを探ったりしつつ、ノートに行動範囲やら趣味嗜好などをマッピングしたりとか、まあその程度だ。けっして盗聴をしたりとか、部屋の中を覗いたりとかはしない。これはあくまで趣味なのだ。……実は面倒くさいからそういうことをしてないだけだけど。推理小説とかには出てこない現実の探偵とかが天職かも? とか思うことも時々あるんだけども、まあそれは置いといて最初はもうビクビクもんだったけど、意外と悟られるということは少ない。他人は他人をあまり気にしていないものなんだなぁ、と思ったり。
 で、肝心のその彼は、最初になんとなくストーキングしてみたらあら不思議ちゃん。
 とにかく面白い人だったわけです。何もないところで立ち止まるなんてもういつもの事で、しかも誰も居ないのに誰かと話をしていたり。
 彼は公園できょろきょろしながら携帯電話を取り出して、なにやら電話に向かってしゃべっていた。
「ぶっ殺すぞ!イチの母め!」
 叫んだよ。アブねー。
 何度も考えた事だけれど、彼をストークするのはやっぱり危険なんじゃないだろうか。
 しかしこんなに面白い対象、なかなかいないしィ……。そんな風にも思う。
 比喩ではなくリストカットでスネが傷だらけの理恵ちゃん先輩(こう呼べと言われてる)が精神病院は一度入って見るべきだ、人間として。と明らかに間違った事を言っていた理由はこういうことだったのだろうか。
 太陽が、社会的不適合の烙印として空に輝いているような気がした。
(似たもの同士は惹かれあう、という事ではありませんように)
 あたしはとにかく彼の監視を続行する事にした。
 今日は一段とテンパってるわね。あなたはあたしの観察対象としては十分すぎるほど面白い奴よ。
「あははははははははは」
 彼は地面に寝転がり、空を見つめていた。
 彼は歓喜に満ちた表情をして青空を眺めていた。だけれどもその目は、とてもとても悲しそうだった。

■五■
 人間ブロイラー、もしくは人間牧場という考えを持った事がある。
 俺たちは食われるために飼われている。
 社会のエネルギーとなるために、飼われているのだ。
 餌を貰い、済む場所を与えられて。
 そんな妄想だ。
 でも、やっぱり時々、その考えが頭に浮かんでくる。
 アパートの四畳半の部屋はまるでカゴか檻で、申し訳程度にある流し台が餌箱に見えてくる。
 聞いたことは無いが、多分同じ事を考えた事がある奴は大勢居るんじゃないかと思う。
 親友の哲也君も大体同意してくれた。
 俺たちは食事をしなければ生きて行けない。
 しかも大してお金もない。
 外食に行けば金がかかる。
 たまにいくとしても松さんちや吉野さんちやドナルドさんちなどがほとんどだ。
 よってスーパーマーケットに行くことになる。
 そしてなるべく安いものを手に入れようとする。
 そしていつも買うものは大体決まってる。
 売り場は整然と商品が並んでいて、
 すべて白い発泡スチロールとラップでパックされいて、
 肉は切りそろえて洗浄してあり、
 ちいさな魚は虚ろな目で俺を見つめている。
 そしてすぐ横では切り身になっているし、
 野菜も洗浄してあったりカットして混ぜてあったりしてすこぶるクリーンだ。
 そこには餌があるだけだ。
 栄養的にも乾燥ドッグフード或いはキャットフードとあまり差異はないように思う。
 ばい菌はいけないもので、きれいなのがいいことで、衛生的なのは必要で。
 けれど俺たちはウンコして汗をかき垢が出て、細菌だらけで、存在自体が汚いという矛盾。
 いいんだよ、汚くたって。
 いいんだよ、生きてても。
 当然なんだから。
 そんな言葉をつぶやいてみた。けど俺の四畳半の惨状は誰の目にも明らかで、そこに『清潔』という言葉は存在していなかった。
 戯言だよ、戯言。
 生きていくには妥協が必要なんだ。妥協しない奴は馬鹿だ。そして俺は馬鹿だ。
 別に部屋が汚いから、だからなんだと言うのか。いつもの様に日は昇り、沈むし、家賃の請求がやがてやってくる。腹は減り、排泄したくなり、性欲に悶え苦しむ。
 いつものことだ。
 ああ、死にたいなぁ。

 あの日からもう何ヶ月も経っていた。
 俺は空を飛べるようになった。あれから何度も何度も大空を飛んだ。最初のうちはうれしかった。自由を手にしたような気がした。爽快だった。
 だが地面に降りれば俺は、どうしようもないダメ人間のままだった。就職活動という名のバイト探しは一向に進展せず、さらに先日親戚に『そろそろ資金援助も限界だ』と言われ、俺は途方にくれていた。
 追い討ちを掛けるように、病院に行ったら次のような事を言われた。
「岩崎君、君は大変によくない状態です。入院しましょう。ゆっくりやすみましょう。そうすればよくなります。今君には休息が必要なんです。さあ何も心配いりません、この書類にサインしてくれればいいんです。お金の事は心配しないで。ソーシャルワーカーと相談しましょう」
 入院。
 入院。
 にゅういんにゅういんにゅういん。にゅういんにゅういんにゅういん。にゅういんにゅういんにゅういん。にゅういんにゅういんにゅういん。にゅういんにゅういんにゅういん。にゅういんにゅういんにゅういんにゅういんにゅういんにゅういん。にゅういんにゅういんにゅういん。
 それは甘美な響きだった。入院は甘美だ。素敵だ。何もしなくていい。俺は弱者だ弱いんだ。看護されるべき人間だ。俺の状態には正当性があるんだ。恐れる必要は無い。
 だがそれは普通の病気の話だ。
 医者の言う事は甘美ではあるが、確かに抗いがたい魅力もあるのだが。
 その意味するところは、
 社会的抹殺。
 社会不適合。
 社会的ひここもりよりももっともっと……致命的。
 そういうことだった。
 ひきこもりよりもこっちのほうが問題なのではないか。
 俺はもしかして狂っているのか。俺はちょっと精神的につらいから胃薬を貰いに行ってついでにカウンセリングを受けてただけのはずじゃなかったのか。狂っていると自覚してる人間は、本当はたいした事無い筈じゃなかったのか。
 俺は狂っているのかもしれない。そして精神障害者としてみとめられて、そして生活保護も受けられるかもしれない。そしたらなんとか生きていける。
 ――だが……。だが、本当にそれでいいのか?
 汗水たらして働いている人たちの税金で、食べていく。それでいいのか?
 俺はそうしたら税金を納めている人に何も言い返せない。苗字さえ親の結婚の度に何度も変わってきた。そういうアイデンティティの不全な俺にとっての唯一の自己同一性であるところの『他人との絶対的な差異』について、それが好ましくない事は承知の上での、その上での『おまえらと俺とは違うんだ』的な、ルサンチマン的な、そういうアイデンティティが崩壊する。してしまう。
「おまえは俺たちが食わせてやってるんだ、氏ねカスが」
 こういわれたら何も言い返せない。俺は言い返すことが今ならまだできる。
「お前らこそ気がついていないだけじゃないのか。この世界の本質から目をそむけているだけじゃないのか。先延ばしにして、緩慢な自殺をしてるのはお前らのほうじゃないか」

「先生、少し考えさせてください」
 そう、俺は病院で言って帰ってきた。
 そして考えた。
 俺は決心した。
 空を飛ぶんだ。
 そして鳥になろう。
 逃げるのは、やめて、向き合おう。
 致命的な世界と。


 三日ぶりにあたしは彼の部屋の前で張り込んでいた。
 彼を観察しつづけて思った事がある。
 彼は狂っていると思う。
 だけど、だからこそほかの人がささいなことだと言って置き去りにした部分を今でも背負っているんだわ。
 彼は世界の中でひとりぼっちだ。
 彼はいつも一人で叫んでいる。
 彼はいつも、何かをつぶやいている。
 不満なんだね。
 そして彼の家をずっと張り込んでみてわかった事がある。
 彼を夏休みの間、四六時中ストーキングしていてわかった事がある。
 彼に友達は居ない。
 ただのネクラで、どうしようもない人間で、そしてもう観察する余地も必要もない。
 救いようが無い人間だ。
 時々聞こえる彼の叫びによると、彼は創作をしていたらしい。
 同人誌を出すんだ、と言っていた。
 だがその同人誌(コピーを束ねたもの)は、すぐ捨てられた。
 ゴミ袋の中からその同人誌を拾い上げて読んだとき、あたしは思った。
 救いようが無い人だなと。
 その同人誌は小説だった。幼女と、子犬と、そして僕≠ェ、正義のヒーローになって世界を救う話。
 そして結末は、世界は救われず、幼女が救われる。正義の味方は正義に殺される。
 虚構の世界を作り上げて、彼は何を得たのだろう。
 書いた本人は救われてないに違いなかった。
 かわいそうだ。
 面白い奴だとおもってたけど、その中身はぜんぜんおもしろくなんかないじゃんよ。
 あたしは彼のことを「いいやつだ」とか「本当は価値がある」とか、そんな有り体な言葉で語るつもりは無い。
 救いようの無い、愚かな人間。
 それが最高の誉め言葉。賞賛。
 世界は彼を許容しないだろう。世界は彼を救わない。
 だけど、あたしは彼を見ていて、よかった。
 どんな虚構より面白いリアルだったわ。
 夏休みも終わる。
 今日で彼を見るのも最後にしよう。岩崎光男、と書かれた郵便受け。
 入った手紙はダイレクトメールと請求書だけ。


 彼がアパートから出てきた。
 彼は普段行かない駅のほうへと歩いていった。
 あたしは駅で知り合いに会ったら困るな、と気が気ではなかったが、彼は切符を買って電車に乗った。
 山手線をぐるぐると回った後、新宿で電車を乗り換えて……しばらく電車に乗る。
 ある駅で降りると、彼は当ても無く歩き始める。
 そして一つのマンションの前に足を止めた。
 そして躊躇せずマンションの脇の階段へ。階段をガードするフェンスを乗り越えて進入する。
 あたしはこれ以上近づくのは危険と判断して、遠くからマンションを見ていた。
 彼は私にとって、存在する意味があった。
 たとえそれを本人が気がつかなくても。
 存在する意味があったのだ。
 あたしは、かかわりを持たないという、自分の中での約束を破って、彼にありがとう、と叫んで、そしてあたしはきびすを返す。
「ミツオー!、あんたがー、この世界にーいてー、ほんとによかったよー!!」
 彼は気づかなかった。



 ………………………
 ……………
 浮遊感。
 また空をとんでいる。
 大空を。
 自由に。
 俺は世界のどこへでもいける。
 背中の羽を羽ばたかせて。
 だけど、
 願えば飛べる羽は
 俺の願いを聞き入れる。
 俺は疲れてしまったよ、俺は願う。
 この腐った世界と戦うために
 俺は、旅に出る
 俺は世界の外からこの世界を攻撃する。

 だから、俺は
 今、
 ・
 落
   ち
      て
          い
               る。
 死の間際、人は人生のすべてをものすごいスピードで思い出すというが、
 俺の人生は思い出す価値もないのか、それともただ脳の何らかの機能の所為なのか。
 俺は何も思い出す事はなかった。
 しいて言えば、
 つかの間の夢をみていたのかもしれない。
 人生そのものが
 長くリアルな走馬灯だったのかもしれない。
 
 だんだんと地面が近く、空は遠くへ、そして重力は確実に俺の体を捉え、視界は急速にホワイトアウトしてゆ























     指
                赤
      血      赤     血   血     脳
          漿
    赤
                血    赤
   肉     肉片             内臓
        脂肪      眼球
                                 吸殻

 小学 生が学校で
   育て
 た ひま わりの花